仙台の街の中を歩いていると、片平丁や名掛丁のような丁(ちょう)のつく町と、大町や荒町のように町(まち)のつく町があることに気づきます。 いったいこの違いはどこからきたのでしょうか?
時はやっぱり江戸時代。 政宗が城下町を作らせた際に武士が住む町には「丁(ちょう)」を、町人や足軽、職人が住む町には「町(まち)」と言う名称をつけたのが始まりです。 政宗が岩出山から士民達を連れて仙台に来た当時(慶長8年 1603年)の人口は、おおよそ家臣が約8,000戸、町民が約2,000戸、寺方が約250戸、その他合わせて総戸数10850戸、人口は約50,000人あったと伝えられています。
青葉城とは広瀬川をはさんで向側にある片平丁には、白石城主の片倉小十郎(現在の西公園内)や、伊達騒動で有名な原田甲斐や伊達安芸などの大身侍が、東一番丁(現在の一番町)、東二番丁には中級武士が軒を連ねていました。
町人町は大町や肴町、足軽町の三百人町や成田町、職人町の石垣町、鍛治町などがありました。 また、町方は24町からなり、厳然とした身分的序列がありました。とくに政宗に従って米沢、岩出山、仙台へとお供してきた大町一〜五丁目、肴町、南町、立町、柳町、荒町の六つの町は特に“御譜代町”としての特別な格式をもっていたそうです。
武士の町
◎東一番丁(ひがしいちばんちょう)
慶長六年(1601)にできた、藩士のための住宅地です。大番組に属する由緒ある家柄の武家屋敷が軒を並べていました。 藩政時代は国分町がメインの通りだったのですが、現在は東一番丁が「一番町」という名に変わって仙台の繁華街を形成しています。
◎百騎丁(ひゃっきちょう)
現在の東二番丁です。 禄高が百石以上で、馬に乗ることを許された身分の藩士が百人住んでいたことから百騎丁と呼ばれました。 もともとは、東一、東二、東三番丁を百騎丁と称したようですが、後に東二番丁だけをさすようになったようです。
◎名掛丁(なかけちょう)
上記の東一番丁等に住んでいた大番士より身分が一つ低い組士が住んでいたのが名掛丁です。 この時代111家あり、「御名懸衆」とも呼ばれていました。 名掛丁は仙台城大手に通ずる重要な街路であり、また、大町や新伝馬町などの町人町の後方に位置して城下防衛上重要な位置にありました。
町人の町
◎大町(おおまち)
伊達家の移動(福島の伊達郡、米沢、岩出山、仙台)にともなってきた御用商人の町(御譜代町)の筆頭で、仙台開府のときに仙台城大手門の真正面に配置される扱い(御城御見通し)を受けています。 御日市の開催などの特権を持っており、寛文の頃からは一丁目に古着屋、二丁目に木綿問屋、三丁目に呉服問屋、四丁目に小間物屋、五丁目に油問屋の専売権が与えられていました。 ええ〜古着屋?と思うかもしれませんが、当時の古着屋が扱っていたものは「ご家老」や「お中ろう」といった上流階級がちょっと着ては払い下げる絹衣装で、高級品でした。
◎肴町(さかなまち)
御譜代町として、大町の次に格付けされていた町人町です。 鮮魚、塩魚、干魚などの魚介類一切の専売を許されていました。 御日市の特権、藩からの補助金があり、藩主御用の魚を献じていました。
◎南町(みなみまち)
御譜代町の南町は、野菜、穀物、荒物の専売が許されていました。 その後、仙台城下の重要地点に位置していたので、やがて両替所が設置され、金融業の町となりました。 現在南町の北端に日銀仙台支店があります。
◎立町(たちまち)
御譜代町の立町は御日市の特権とともに、米などの穀類の専売権も与えられていました。 穀町、新伝馬町、二日町、立町とで四穀町と呼ばれ、五穀の相場を決めていました。
◎柳町(やなぎまち)
御譜代町の柳町は藩政時代、茶の専売の特権が与えられた町で、もとは西公園の東にある元柳町に配置されていました。 寛政四年に西公園の東から、南町と北目町の間の現在の場所に移り奥州街道筋となりました。 400年の歴史がある田善銅壺屋(現タゼン)はここの最も古い店です。
◎荒町(あらまち)
御譜代町の荒町は藩政時代、麹の専売の特権が与えられた町で、もとは大町三丁目から南へ袋町にいたる本荒町に配置されていました。 奥州街道が荒町を通るようになってからは酒造用の麹やうちわの産地として知られるようになり、回文師仙台庵の「渋うちわ」は伝統的な名産品でした。 今でも銭形屋などの麹屋があります。
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